くじらのねむる場所@はてなブログ

岡山県南西部在住。1983年生まれの40歳。経済、ミステリ、ウイスキー等について細々とブログに書いています

人にお金を与えると怠けるのだろうか?

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では、リフレ政策についてはどうか。リフレ政策をやって通貨を膨張させ、何百兆円もバラまいたとする。このとき、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民は思うだろうか。

 一連のエントリーを読んでいて気になった部分は「お金をばらまくと人は働かなくなり、マネーゲームなどの非生産的な活動を行ってしまう」という箇所です。このブログに限らず、お金をばらまくと労働意欲が減るという意見はよく目にします。

 しかし、本当にお金をもらったら人は働かなくなるのでしょうか?どうもこの部分に違和感を感じてしまう。そりゃ、マネーゲームに走る人はいくらかの割合でいるでしょう。しかし全員がそういった道に走るとはとうてい思えない。ただお金を得るためだけじゃなくて働くのが楽しい人だっているんじゃないだろうか。そういう人は金をいくら積まれたって働くことは辞めないでしょう。

 「こういうことを考えている本がないかな……」と、思い返してみたらあった!それは「こどものための哲学対話」(永井均著)です。本書は「ぼく」と猫の「ペネトレ」対話形式で、「こども」の素朴な疑問について話し合っています。いくつか引用してみましょう。

ぼく:ねえ、ペネトレ、人間って何のために生きているんだろう?たとえばお父さんを見ているとね、毎日毎日、仕事ばっかりしているけど、仕事ってお金をかせぐためにするんでしょ?(中略)生きていくために必要だからやっているはずのことが、生きていくことそのものになっちゃっているような、なんだかへんな感じがするんだけど。

ペネトレ生きていくための手段であったはずのことに、生きていく時間の大半をつかっちゃっているって事だね?でも、人生はね、目的と手段をはっきり分けることができないんだよ。手段であったはずのことが、いつの間にか目的そのものになっちゃうことこそが、人生のおもしろみなのさ。

ぼく:手段であったはずのことが目的そのものになっちゃう……?でも、その目的って一体何なの?人間って結局は何のために生きているの?

ペネトレ結局は、……遊ぶためさ。仕事をしてお金をかせぐのも遊ぶためなんだけど、その仕事が生きていくことそのものになっちゃうのは、その仕事そのものが遊びになっちゃったって事なんだよ。それはちっともへんなことじゃなくて、とてもいいことなんだよ。

ぼく:人生の目的は遊ぶことだって言うの?世の中のためになるとか、何か立派な仕事をするとか、そういうことじゃなくて?ただ遊ぶため?       (人間はなんのために生きているのか?(1))          

ぼく:一生ただ遊んで暮らすなんて、なんだかかえってつまらないような気がするんだけど……。やっぱり、何かある目標のために努力する人生の方が、充実しているんじゃないかな?

ペネトレ世の中の人は、仕事をすることと対比して、「遊ぶ」って言葉を何もしないでぶらぶらしているって意味に使うからね。でも、ぼくのいう「遊ぶ」ってことはそういう意味じゃないよ。「遊ぶ」っていうのはね、自分のしたいことをして「楽しむ」ことさ。そのときやっていることの中だけで完全に満ち足りている状態のことなんだよ。そのときやっていることの他にどんな目的も意味も求める必要がない状態のことなんだ。つまり、なんのためにでもなく生きている状態だな。ただそれが楽しいから遊ぶんで、それによって何が実現されるからでもないんだよ。        (人間はなんのために生きているのか?(2)) 

ぼく:おおきくなったら、しごとをするよね。それで、よくわからないことがあるんだ。たとえば、畑をたがやして農作物を作るしごととか、病気をなおすしごととか、そういうしごとは、よくわかるんだよ。あと、絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を演奏したりするしごとも、まあ、意味はあると思うんだ。でも、たとえばね、将棋をさすしごととか、人が書いた小説や演奏をした音楽を批評するしごとなんて、存在する意味があるのかな?そんなしごと、なくてもいいじゃないかって思うんだけど?

ペネトレ農民や医者は必要だけど、棋士や音楽評論家なんて必要ない、って言いたいわけだね? でも、それはちがうよ。人間は遊ぶために生きているんだからね。どんな遊びが楽しいかは人によってちがっているさ。(中略)そういう人は、だんだん将棋のさしかたや音楽の聞き方が高度になっていくんだ。そうすると、そういう高度な水準に達した人のために役立つような、将棋のさしかたや音楽の聞き方を示してくれる人が、必要になってくるんだよ。
(中略)
 ある商品が生産されるのは、それを買ってくれる人がいるからなんだ。棋士や音楽評論家も、将棋の対戦や評論という商品を売って生活しているんだけど、そんなことができるのは、それを喜んで買ってくれる人がたくさんいるからなんだ。買ってくれる人がいなくなれば、そんなしごとなくなるよ。        (へんなしごとの意味)

 長々引用しましたが、何が言いたいかというと、私と、モジログの中の人とでは、「仕事」という言葉のとらえ方に違いがあるんじゃないだろうか。需要があってそれにあわせて生産するのが生産活動。だから一見すると意味不明な仕事、将棋や評論家に限らず、ハイパーメディアクリエイターだってキャンドルアーティストだって立派な「仕事」だ(そこに需要があるならね)。

 お金を直接人にばらまけば、会社や工場を辞める人が続出するかもしれない*1。でもそういう人は多分新しい「仕事」(=遊び)を始めるはずだ。だって人間は「遊び」たいんだもの。「遊び」の需要だって無限大だ。なぜなら人間は、「死によってのみ消滅する、やむことのない欲望」の塊(byホッブズ)なんだから。

 そうやって生み出される「仕事」(=遊び)は、想像を絶するものになると思う。「えっ。こんなのが仕事になるの?」というビジネスが続出すると思う。

 これがイノベーションというやつじゃないんだろうか?もちろんお金をばらまいただけではイノベーションは起こりづらいでしょう。だからそういう所は規制緩和が必要。でもお金があふれていた方がみんな金遣いが良くなるからね。投資も受けやすくなる。

 だから「お金をばらまくと人は働かなくなる」という意見に対しては非常に懐疑的です。むしろみんなどんどん「仕事」(=遊び)をするようになるんじゃないだろうか。

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

永井均先生の本は高校時代から読んでいるけど、どの本も刺激的だ。
新教養主義宣言 (河出文庫)

新教養主義宣言 (河出文庫)

本エントリーじゃ全然触れなかったけど、この本の最初の部分と重なるところがあるので紹介。

*1:逆に会社や工場で働くことが楽しい人は絶対辞めないだろう