くじらのねむる場所@はてなブログ

岡山県南西部在住。1983年生まれの40歳。経済、ミステリ、ウイスキー等について細々とブログに書いています

思い出話

少し前に、はてなアノニマスダイアリーのエントリーを肴に、2000年代の言説を思い出しましたが、ついでに当時「なるほど」と、ものすごく納得したエントリーを思い出したので、備忘録代わりにメモしておきます。それは、H.A.Economicsというblog*1で、H.A.さんが書かれた、「不平等について」というエントリーです。Internet Archiveでも該当エントリーを見ることができるけど、いま読んでも素晴らしいエントリーなので、こちらに全文転載*2

「不平等」について。
先日書いたキムタケさんの「キャピタルフライト」の書評に対して、nu_246さんのblog、バイオティックレイヤードからリアクションをいただいた。それに対してこちらからも意見を書きたい。

nu_246さんからは「ある程度の不平等は悪ではない。能力の格差がはっきり現れた方が僕は頑張れるから」という趣旨で発言なさっている。

ここで、「不平等」という言葉は「所得格差」という意味で使われていて、「能力に応じて所得格差が現れるのは当然だ。だからこそ頑張れるのだ」とおっしゃっていると解釈した(もし違ったらすいません。コメントください)。僕もこの意味ではnu_246さんに大賛成だ。能力に応じて所得が得られる社会が基本だと思っている。

しかし、能力に応じた所得格差は必ずしも「失業」を伴う必要は無いのではないかと、僕は思う。むしろ、非自発的失業が存在する社会では、「能力に応じた所得」が得られない。

この結論は、有効需要の原理から得られる。
非常に単純化した話をしてみたいと思う。

いま、社会にA,B,C,D,Eの5人がいるとする。
この人々はそれぞれ年に、
A:1000万円
B:800万円
C:600万円
D:400万円
E:200万円
の生産能力があるとしよう。つまり、この国の生産能力は3000万円だ(話を分かりやすくするために名目で話をする。実質でも同じ結論になる)。

有効需要の原理とは一言で言って、「総需要<生産能力のときは、需要が一国の生産を決定する」というものだ。「モノが売れないときは作らない」というのはそれほど無理のある話ではないと思う。

例1.

不況とはまさに「需要が少ない」状態である。そこで、この国の需要が2800万円しかないとする。
すると、企業は2800万円分しか生産しようとはしないはずだ。よって、企業はA,B,C,Dしか雇用しない。Eは失業である。このとき各人の所得は

A:1000万円
B:800万円
C:600万円
D:400万円
E:0円(!!)

である。


例2.

一方、需要が3000万円以上きちんとあったらどうだろうか。
この場合は、全員雇用されて、

A:1000万円
B:800万円
C:600万円
D:400万円
E:200万円

と、全員生産能力どおり所得を得る。


さて、ここからは価値判断の問題だ。どちらがいい社会と言えるだろうか?僕には下の社会の方がいいとしか思えないのだ。

どちらの社会も能力に応じて所得格差が生じている。しかし、例1の社会は能力に応じて所得を得ているとは言えない。Eさんは200万円分の能力があるにもかかわらず所得を得ていないからだ。しかも、これはEさんのせいではない。Eさんが失業しているのは需要が少ないからだ。頑張っていないからではない。

もちろんEさんが頑張って500万円分の生産能力を身につけ、Dさんの能力を上回れば、Eさんは職を得ることができるだろう。しかし、総需要が変化していなければ、この時Dさんが替わりに失業するだろう。そして、Eさんは500万円分の能力がありながら、400万円の所得しか得られない。つまり、総需要が増えない限り、経済はゼロサムなのだ。ここで全員が頑張るとさらにすごいことが起こる。

例3.

全員が頑張って、

A:1200万円
B:900万円
C:700万円
D:600万円
E:400万円

の生産能力を得たとする。
しかし、実際の生産はやはり需要に支配される。つまり、実際の生産額は2800万円のままだ。したがってこの時はEさんだけでなくDさんも失業する。結局、ミクロで頑張ってもマクロではよくならない。逆に所得格差が広がるのだ。


頑張った分だけ、つまり生産性上昇が所得増につながるのは、総需要がきちんと生産能力分だけあることが前提なのだ。したがって、「頑張っても景気はよくならない」。

僕は、「頑張るな」と言っているわけではない。むしろ、「頑張るべき」だと思う。しかし、総需要が不足している社会では頑張っても報われにくく、しかも頑張った場合には他人を蹴落とすことになるだろう。おまけに所得格差は能力差以上に開いている。僕はそんな社会がいいとは思えないのだ。
総需要が生産能力を上回っている場合でも、能力に応じて所得が得られる。しかも頑張れば総需要の範囲ではきちんと所得は伸びる。
こっちの方が、僕はいい社会だと思ってます。

だから、今すべき一番重要なことは「総需要を増やすことだ」と、僕は考えている。それが、頑張れば報われる社会にする一つの方法だと。そして、日銀は総需要は増やすことができると考えているのです。

もちろん「いい」「悪い」は価値判断だ。しかし、僕はこの価値判断はそれほど間違ってないんじゃないかと思っていますが、どうでしょうか。

総需要が増えない限り、みんな頑張れば、頑張るほど、所得格差が開いていく!*3このエントリーを初めて読んだときは、目から鱗が落ちるようでした。本当にいま読んでも色あせていない、いや「あまったれてんじゃねぇ」という言説が出てくる限り、必要な文章だと思います。こういった素晴らしいエントリーがあるblogが消えるのは、残念な限り*4

当時、このような素晴らしいblogを読むことができた私は、本当に幸せ者だ。

*1:残念ながら、このblogは現在消滅しています。Internet Archiveで一部見ることができます

*2:もちろんこれは、やってはいけないことなので、抗議があればすぐ削除します

*3:ちなみに、同じようなことを「脱貧困の経済学」の中で飯田泰之先生が述べています(P160〜)。

*4:一応、Internet Archiveで見ることができるけど、全部保存してるわけじゃないからねえ